2014年05月26日

オートポイエーシス論の本質

論文発表の準備その他でたて込みまして、久しぶりのエントリーです。先日、河本さんが新著『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』を出しました。それを読んでちょっと思ったことを一言。これはもうオートポイエーシス論の本質に関わる話で、河本さんと私の方法論の違いにも関わってくるのですが。
ズバリ言いますと、オートポイエーシス論とは、オートポイエーシス・システムの実現、作動、消失について記述する理論です。実のところ、これ以外のことはできません。いろいろと書いてあっても、やっていることは本当にこれだけ。重要なのはこれが何を意味することかなんですけど、これが意味するのは、オートポイエーシス論の記述は、この理論から独立に実在しているシステムの在り様に従わなければならない、ということなのです。あらゆるオートポイエーシス・システムはそれ自身で実在しているのですから。あくまでも、理論的な記述に先立って、システムは実在し作動しています。ということは、言い換えると、オートポイエーシス論者がすべきことはただ一つで、それは実在しているシステムを見出して記述することなのです。ここに、オートポイエーシス論者の恣意が入り込む余地はありません。どう記述するかは、システム自身の作動の在り様によって完全に規定されます。ここが、オートポイエーシス論の記述とラディカル構成主義的に理解される認識との決定的な違いです。もちろん、語り方そのものにはさまざまなバリエーションが可能ですが。
実を言いますと、河本さんの記述が今一つわかりにくい理由がおそらくここにあります。今度の著書で特に顕著なんですけど、河本さんてシステムを記述しないんですよ。では何を記述しているかと言うと、産出プロセスと構成素なんですね。これはおそらく現象学から影響を受けているのだと思います。個々の産出プロセスは直接知によって把握できますし、構成素は観察できますから。だからこそ、河本さんが主題にするのは認知や動作そのものであって、認知しているシステムや動作しているシステムではないんです。その点で、記述されている認知や動作そのものを体験的に捉えられる人には、河本さんの記述は理解できるはず。ただし、そこからシステムの理解へつなげるのは相当に難しいと思いますけど。
この点で言うと、私の記述の方がオートポイエーシス論的には王道なんです。実在するシステムの作動そのものとして事象を記述するというのが私のスタイルですから。そしてその際に、オートポイエーシス・システムの一般的性質と、構成素のタイプによる考察が入ります。その代わりと言ってはなんですが、このスタイルの場合、まずオートポイエーシスとは何ぞや、ということを理解していてくれないと、話になりません。出た結論について、あーあるあるで終わります。オートポイエーシス論の利用の仕方として、その結論だけを利用するというのはとりあえずありですが。もちろん、これだと自分でオートポイエーシス論を使えるようにはなりませんけどね。河本さんのように認知や動作をテーマにするなら、私の場合、生命システム、意識システム、認識システムの三つのシステムの作動と構造的カップリング及び環境との相互浸透から来る攪乱として語ることになるでしょう。ということは、この三つのシステムがオートポイエーシス・システムとして実在していることを承認してもらわないと話が進まないわけです。私が苦労して『入門』を書いた理由もここにあります。


posted by autopoiesis at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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